LOGIN少し強い言い方になった。 すぐに後悔したけれど、謝らなかった。 シートベルトの金具が、膝の横で小さく鳴った。 今は、謝るより先に怒っていたかった。 病院に着く頃には、外は暗くなり始めていた。 救急外来の入口には、救急車が一台停まっている。自動ドアの向こうから、消毒液の匂いと、靴音と、短い呼び出しの声が流れてきた。 高瀬さんが受付へ行く。私は少し離れた場所で待った。 ここで名乗っても、私には権限がない。母かもしれない人。そんな言葉は、病院の受付では何の力も持たない。 それが分かっているから、胸が痛かった。 しばらくして、九条家の代理人が到着した。康隆さんの代理だという男性は、こちらへ深く頭を下げたが、私に余計なことは言わなかった。 そのまま高瀬さんと一緒に受付奥の相談室へ入る。 待つ時間は長かった。 壁の時計の針が一つ進むたび、手の内側に汗が滲む。救急外来の椅子は硬く、座っていても背中が落ち着かない。 律は私の隣にいた。 車椅子の位置は、近すぎず、遠すぎなかった。「飲み物を」 相良さんが小さな紙コップを差し出した。 水だった。 私は受け取ったが、飲めなかった。紙コップの縁が少しへこんでいる。指に力が入りすぎていた。「朝霧さん」 律が、低く言った。「葵さんが無事だった場合、会えるかどうかは医師の判断です」「はい。まずは、無事だと分かれば」 そう答えても、律は私の顔を見ていた。 私は紙コップの水面を見た。「私が、期待しすぎないように?」「そうではありません」 答えが早かった。「会えなかった時、あなたが自分を責めないように」 言い終えた律の声は、いつもほど落ち着いていなかった。私を案じているのか、それとも自分も怖いのか。聞けば分かるのに、聞く勇気がなかった。 水面が、ほんの少し揺れた。 手が震えたのだと、遅れて分かった。「……そう言われると、怒っていられなくなり
地図の赤い印が頭から離れず、胸の内側の震えがはっきりと伝わってくる。まだ行き先さえ分からないまま、知らせを待つしかなかった。 書斎の窓を雨粒が伝っていた。外の明かりがその向こうに滲み、連絡を待つ間も、雨の音は途切れなかった。 相良さんが手配した確認車両を出してまもなく、康隆さんの代理人から折り返しがあった。 高瀬さんは通話をスピーカーにはしなかった。ただ、必要な部分だけをこちらへ伝える。「康隆氏は、九条葵さんの安全確認について正式に同意しました。病院、警察、消防に対して、九条家側の代理人が入ります」「康生さんじゃなく?」「康隆氏本人の委任状です」 その言葉で、私は初めて康隆さんが九条家の中でまだ何かを動かせる人なのだと実感した。 年老いていても、震えていても、あの人は完全には黙らされていない。 同時に、康生さんがそれを嫌がる理由も分かった。 葵さんが生きている。 葵さんが話すかもしれない。 そして、康隆さんが今度こそ聞こうとしている。 康生さんにとって、それは二十四年前の事故よりも厄介なことなのだろう。 十五分後、最初の事故情報が入った。 事故多発地点の手前で、医療搬送車がガードレールに接触。 後続車の運転手が通報。 搬送されていた女性患者一名と、運転手、付き添いの男性職員が救急搬送。 重篤な外傷は現時点で確認されていないが、患者は意識混濁。 それを聞いた瞬間、足元の力が抜けそうになった。「軽傷、なんですか」「重篤じゃない、という第一報です」 高瀬さんは言い換えなかった。「詳細は、搬送先の病院で確認します。ただし、朝霧さん単独では情報開示を受けられません。九条康隆氏の代理人が病院へ向かっています」「康隆さんは」「病院へ行くとおっしゃっていますが、ご高齢です。代理人が先に入ります」 私は頷いた。 頷いたつもりだった。首が動いたかどうかは分からない。 車に乗ると、窓の外はもう夕方だった。 空の端に薄い雲が伸びている。道路
地図の赤い印を見ているうちに、部屋の音が遠くなった。 書斎には、雨の匂いとプリンターの熱がこもっていた。 事故多発地点。 文字にすれば、それだけだった。道路管理会社の注意表示。過去の統計。天候やカーブの角度や路面状態をまとめた、無機質な情報。 赤い印を見たまま、私は顔を上げられなかった。「確認車両を出します」 相良さんが短く言った。「ただし、追跡や接触はしません。警察と消防に通報し、車両番号と推定ルートを共有します」 相良さんの言葉で、次にすることが一つ定まった。 直接追いかけて、道を塞いで、窓を叩いて。頭のどこかでは、そんな乱暴な絵が浮かんでいた。けれど、それをすれば康生さんの望む構図に乗る。 感情的に押しかけた女。 療養中の患者を奪おうとした女。 また、私だけが悪く見える筋書きになる。「警察には、何と言うんですか」 自分の声は、思った以上に乾いて掠れていた。 高瀬さんは端末から顔を上げない。「医療搬送車両の不審な経路変更と、患者本人の安全確認です。車両番号、推定ルート、事故多発地点の情報を添えます。誘拐という言葉は、まだ使いません」「使わないんですか」「現時点で断定できません。強い言葉は、あとで足を引っ張ります」 強い言葉。 叫べば少しは楽になる言葉。 叫んだところで、車の場所が分かるわけではない。私は膝の上で手を握った。「……お願いします」 短く言うのが精一杯だった。 律は隣で黙っていた。車椅子の肘掛けに置かれた手が、いつもより深く沈んでいる。怒りを抑えているのだと分かった。「康隆氏にも連絡を」 律が言った。「九条家側の正当な照会として安全確認を入れた方がいい」「すぐに」 高瀬さんが頷く。 電話の声が重なる。キーボードの音。プリンターが動き出す低い振動。いつもの書斎が、急に現場の一部みたいになった。 何もしていない自分の手が、膝の上で落ち着かなかった。立ち上が
自分の言葉が、少しずつ乱れていく。 面会許可書を持っていた手には、紙の角の感触がまだ残っていた。ファイルへ戻しても、指の力は抜けなかった。 「でも、それをやったら、また私が悪者になる。康生さんは、きっとそういう絵を待ってる」 律は、私の言葉を遮らなかった。 車椅子の上で、ただ静かにこちらを見ている。 「……嫌ですね」 私は小さく笑った。 笑い声にはならなかった。 「怒り方まで、相手に選ばされそうになるの」 律の目が、わずかに細くなる。 「だったら、今のまま言ってください」 「今のまま?」 「きれいに直さずに。こちらで記録します」 「怒ってることまで?」 「必要なら、そのまま記録します」 一瞬だけ、息が抜けた。 高瀬さんがノートを一度、こちらへ向けた。 「発言のまま残します。手続きを飛ばさなかったことも」 「……そこまで書くんですか」 「書ける範囲で」 「……本当に事務的ですね」 「よく言われます」 少しだけ息が抜けた。 私たちは榊邸へ戻った。 すぐに書斎で情報整理が始まる。療養院の受領控え、警備委託会社の通過記録、搬送会社の事業者名、KMS系列との資本関係。 机に並んだのは、どれも正式に取れた資料だけだった。薄い。腹が立つくらい薄い。私は一枚目の受領控えをもう一度めくった。 夕方になって、情報管理部の主任から追加の報告が入った。 「搬送車両のナンバー下四桁と、首都高の通過情報に一致する可能性があるデータが出ました。ただし、直接照会じゃありません。業務提携先の有料道路管理システムに残る法人車両の利用履歴の一部です」 「使えますか」 私が訊くと、主任はすぐには頷かなかった。 「現時点では、参考情報です。証拠として使うには、正式照会が必要です」 「場所は」 律が訊いた。 主任は画面を切り替えた。 地図上に、一本の線が出る。 青嶺療養院から都心方面へ向かったように見えた車両は、途中で進路を変えていた。 南西方向。 細い山道へ続く出口。 みぞおちのあたりが、冷たくなった。 「この先に、医療施設は?」 高瀬さんが訊く。 「登録された療養施設はありません。あるのは、KMSが保有する研修保養所です」 主任の声が、硬くなった。 「それと、二年前まで使わ
高瀬さんの声は静かだった。 「もちろん、医療情報そのものを不正に取得する目的じゃありません。本日の説明内容と、通知書の受領に関する記録です」 副施設長は口を閉じた。 しばらくして、ようやく封筒を受け取った。 窓の外の明るさが、ロビーの白い壁をさらに淡くしていた。 「受領印をお願いします」 高瀬さんが言う。 副施設長は一度奥へ戻り、受付印を押した控えを持ってきた。 その間、私はロビーの端にある廊下を見ていた。 車椅子でも通れる幅の広い廊下。手すり。壁に貼られた避難経路図。突き当たりの向こうに、病棟へ続く自動ドアがある。 その向こうのどこかに、昨日まで葵さんがいたのかもしれない。 私が会う前に、消された。 証拠として。 娘として。 どちらとしても会う前に。 施設を出ると、外の空気が湿っていた。 駐車場の端で、相良さんが電話を終えてこちらを向いた。 「搬送車両について、施設の出入り記録だけ確認できました」 「早いですね」 高瀬さんが眉を上げる。 「施設側からじゃありません。正門の警備委託会社が、来訪車両の通過時刻だけを管理しています。ナンバーの全桁は出せませんが、登録事業者名が残っています」 「どこですか」 私が訊くと、相良さんは一度、律を見た。 律の表情が変わらない。 「KMSメディカルサポート系列の搬送会社です」 やはり。 そう思ったのに、胃の奥が沈んだ。 「時刻は」 「午前六時三十八分入構。六時五十二分出構」 副施設長が言った六時四十分は、車両が施設内にいた時間に含まれている。 それだけなら、矛盾はない。 けれど、その十四分間に誰が何をしたのかまでは、記録から分からなかった。 「行き先は」 「記録にはありません。ただ、車両の位置情報は搬送会社側の管理です。任意照会では難しいでしょう」 「康生さんが押さえてるでしょうね」 私が言うと、相良さんは否定しなかった。 律が静かに口を開く。 「警備委託会社への保全要請を出しましょう。通過時刻、車両登録、受付者、搬送依頼書の控え。施設側にも同じく」 「手配します」 相良さんが短く答える。 動きが早い。 早いのに、胸の中の焦りは消えなかった。 葵さんを乗せた車は、もうここにはいない。 午
「把握しておりました」 「そのうえで、面会予定者への連絡は行わなかった」 「緊急性があったためです」 「救急搬送ですか」 副施設長のまぶたが、一度だけ動いた。 廊下の気配が一瞬だけ近づき、すぐに遠のいた。 「医療搬送です」 「搬送先は」 「お答えできません」 「本人の意思確認は」 「医師の判断です」 「本人が拒否できる状態だったかどうかは」 「お答えできません」 同じ扉が、何度も閉じられていく。 私は、言葉の隙間を見ていた。 救急搬送ではない。 医療搬送。 午前六時四十分。 面会予定を把握していた。 連絡しなかった。 私は面会許可書の時刻と、副施設長の顔を交互に見た。 「どなたが移送を決めたんですか」 私が訊いた。 副施設長が、初めて私を見る。 「医師の判断です」 「医師のお名前は、伺えますか」 「担当医の個人名はお答えできません」 「では、九条家側の誰かから連絡はありましたか」 高瀬さんが一瞬こちらを見たが、止めなかった。 副施設長は、すぐに答えなかった。 副施設長は、受付のカウンターにある書類へ目を落とした。 「お答えできません」 「あった、そういう意味ですね」 私は言った。 声は、思ったより低かった。 副施設長の眉がかすかに動く。 「そのような解釈は困ります」 「困るのは、こちらも同じです」 言った瞬間、胸の内側が熱くなった。 「昨日、面会許可が出ました。今日の朝、移送されました。連絡はありませんでした。本人が望んだのか、どこへ運ばれたのか、誰が決めたのかも分からない。……これで安心してくださいと言われても、できません」 副施設長は目を逸らした。 言いすぎただろうか。 でも、戻せない。 律は口を挟まず、高瀬さんのペンだけが動いていた。 私は、自分の手で面会許可書を持ち直した。 「九条葵さんは、物じゃありません」 その名前を口にした瞬間、ロビーの奥で小さな動きがあった。 年配の職員が、こちらを見た。 すぐに目を伏せたが、遅かった。 その人は、知っている。 私はその職員を見たまま、続けた。 「体調が悪いなら、治療が優先されるのは分かります。でも、人を隠すために治療という言葉を使ってるなら、それは別の問題です
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし